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メソジスト教会の歴史概略
John Wesley の歩み概略と英国での歴史
1703年、英国リンカシャー教区のエプワースの英国教会司祭館で生まれる。5歳の時、
司祭館に放火され、火災の中を奇跡的に救出される。
チャーター・ハウス(ロンドン)、クライスト・チャーチ・カレッジ(オックスフォード)で
学び、1725年に英国教会の執事、1728年に司祭に叙階(クライスト・チャーチ大聖堂)された。
その後リンカーン・カレッジ(オックスフォード)のフェローになった。
オックスフォードにて、志を同じくする友人ら(弟も参加)とホーリー・クラブ(聖なるクラブ)を結成し、毎日の礼拝と敬虔な生活
をするようになる。この時、周囲からはメソジスト(几帳面屋)とやゆされたが、このあだ名を
そのまま自分達クラブの名称としたのが Methodist という名称の由来となる。
その後、弟チャールスと共にアメリカ伝道に出かけるが、悲惨な宣教活動となり失意のうちに帰国。
自分の信仰の確信について悩み続ける。
1738年5月24日の夕刻、ロンドンのアダルス・ゲート通りで不思議な回心の経験をし、
"救いの真実の確信"を体験する。この確信は誰にでも起こり得ると、力強く語るようになる。
ホーリクラブの共同設立者の一人であるジョージ・ホイットフィールドは、優れた説教家となって、
奴隷貿易の拠点でもあった港町のブリストルで野外説教を始めるようウェスレーに勧めた。当時、英国教会では
説教は教会堂以外で行う事は重大な教会法違反であった。
しかし、二人は野外の大衆に向かって説教をするようになり、多くの人々が回心の経験とメソジスト運動に参加するようになった。
この事がのちに英国教会との軋轢となった。
ブリストルに初めてのメソジスト運動のための建物を建て、説教、教育、医療の調剤所、
また急増する旅行説教者のための宿泊施設として利用された。
多くの町々に馬で周りながら、野外説教を通して神の恵みを説き、労働者の生活指導を行った(
当時の労働者は酒に溺れ、野外でしばしば喧嘩をし、生活と健康において乱れていた)。
弟チャールスが作った讃美歌を用いて、「福音」を分かりやすく伝えるメッセージが野外礼拝にて
人々に与えられた (メソジストは福音を歌う教会とも言われる)。
1739年にロンドンの工場での説教、1778年にロンドンに礼拝堂を建設。
信仰の理解について、ウェスレーの"アルミニアニズム"と"カルビニズム"との間で差異が出て、
カルビニストであるホイット・フィールドと袂を分つことになった。
カルビニズムは、救われるのは選ばれた人に対する神の力と権威を強調する傾向があるが、
アルミニアニズムは、一人一人が自由に神に答えることを選ぶ能力と"すべての人が救われうる"とする。
ウェスレーは「死に至るまで私は英国教会の司祭である」という立場を保持したが、彼が亡くなるまでに既に
メソジスト運動は英国教会から独自の道を歩みだし、アメリカのメソジストは1790年代以降、英国のメソジズム
と分離状態になっていた。
ウェスレーの活動は、英国西南のコーンウォールの炭鉱地帯で成功をおさめ、この地に多くのメソジストが
育った、メソジスト達は、奴隷貿易の廃止、労働組合の結成に貢献した (メソジストの社会の聖化)。
ウェスレーの伝道の旅は50年間続き、その道のりは25万マイルと言われている。生涯にわたる
伝道者であった。
1791年3月2日(87歳没)ロンドンの彼の建てた礼拝堂に埋葬。